令和6年 弥生

 人間の浮草のような姿をよくよく見ますと はかなきものはこの世の始めと終り 幻のような一生です ですから今だに万年も生きたという事を聞いたことはなく 一生はあっというまに終ります 今でもだれが百年生きることができるでしょう 私がさきかあなたがさきか今日か明日かわかりません 先立つ人は朝落ちた露よりも多いことです ですから朝は元気な顔をしていても晩には物言わぬ身となります 無常の風が来ますと二つのまなこを閉じます 一つの息が絶えます 元気な顔も変り 桃やあんずのような肌もその姿を失ったときは 家族や親類の者がどれだけ悲しもうと もうもとの姿にはかえりません 止むを得ませんので葬式をして 朝行ってみれば残っているのは白骨だけです 言葉では表すことのできない悲しさです このことをどれだけ学間や智識や教養で考えても解決はしません ですから人間のはかないことは老や若いという定めはありません すべての人がまさかという生死の問題を心にかけて アミダ仏の心にいだかれて念仏申しつつ この一生を安心して全うしてください あなかしこあなかしこ  (御文章)

 春のお彼岸です。彼の岸、仏様の世界、悟りの世界に帰られた大切な人々を想い合掌お念仏申しましょう。 南無阿弥陀仏

2月

  
  
  
  
  
  
  
  

令和6年 如月

 この度、能登半島地震により被災された皆様、ならびにそのご家族の皆様に心よりお見舞い申し上げます。
 ウクライナでそしてガザ地区で戦争により今も多くのと尊い命が失われています。そして1月1日の能登半島地震により多くの尊い命が失れました。私たちひとりひとりに与えられた生命は言うまでもなく何より大切な唯一無二、絶対に失いたくないものです。
尊い命を失われた人々に思いを寄せるとともに自身の命についても真摯に向き合い、考えていかなければならないことと思います。
 私たちは有るものには当たり前になりその価値に気付かず、失って初めてその重要性に気付かされる…そういったケースがしばしばあります。やり直しがきくのであればそれもよいのでしょうが、命はそうはいきません。失うと二度と元には戻れません。一度だけの、限りある、必ず終わる生命、しかもいつ終るかわからない生命、大切に生きなければなりません。
 独生独死、独去独来、無有代者。誰も代わることのできない私の命、何を求め何の為に生きるのかをしっかりと考えていきたいものです。

※「人在世間愛欲之中。独生、独死、独去、独来。身自当之、無有代者」(人、世間の愛欲の中にありて、ひとり生まれ、ひとり死し、ひとり去り、ひとり来る。身みずからこれを受け、代わる者あることなし。)『無量寿経』の一節

2月

  
  
  
  
  
  
  
  
  
  

令和6年 睦月

あけましておめでとうございます

 令和6年、新しい年を迎え謹んでお慶びを申し上げます。継続すべき事はそのまま、リセットすべき事は切りかえ、本年も健康に留意してそれぞれの自分に最適なペースで精進していきたいものです。
 私自身振り返ると10代20代30代は何もわからずただ前へ前へ、40代50代60代は家族のこと特に子供のこと、仕事のことお寺の運営など色々と心配なこと・迷うこと・考えなければいけないことが一杯あり、ただバタバタと忙しく過ぎ去って行ったように思います。70代になりまかせられることは全てまかせ…というより体力も根気もなくなり気楽にやらせてもらっている今日このごろです。外のことを考えなくなると気になるのは自分ことです。体のこと、終り方、未来に託すもの…など、やはり心配と迷いは尽きません。
 私の好きなテレビ番組はNHKのドキュメント72時間です。3日間にわたり同じ場所でそこに集う人々の人情の機微に触れるという内容です。その情景の中、エンディングで流れる松崎ナオさんの「川べりの家」は深く心にしみこんできます。

   大人になってゆくほど
   涙がよく出てしまうのは
   1人で生きて行けるからだと信じて止まない

   それでも淋しいのも知ってるから
   あたたかい場所へ行こうよ

                      作詞・作曲 松崎ナオ「川べりの家」より

正善寺が「あたたかい場所」になれれば嬉しいです。

1月